谷テック創業のお話

谷テック創業のお話STORY OF TANITEC

外観

谷製鋸株式会社 外観

写真

創業者 谷 邦雄

昭和21年(1945年)3月13日午後11時頃、創業者 谷 邦雄は中国へ出征中であった。
この日、大阪市の自宅から20m離れた場所に爆弾が落ちた。かろうじて家族は助かった。しかし多くの市民の方々が戦争の犠牲となった。 そして同年8月15日に終戦の日を迎えるのだった。
邦雄は召集免除となり、昭和21年(1946年)4月16日中国の深圳から帰国した。 復員した邦雄は、大阪市内で丸鋸の製造販売の会社を興す。
いろいろな方々とのご縁で復員後の邦夫は、昭和21年(1946年)6月1日に大阪市港区市場通の住居に刃物販売の仮事務所を作って、当時の創業のパートナーである橋本特殊工業様(香川県高松市)の橋と谷をとって「橋谷(はしたに)製鋸所(せいきょしょ)」の看板を上げて商いを始めた。
そしてその後、様々な人々に支えられ助けられて、昭和22年(1947年)1月に大阪市浪速区桜川2丁目に100坪の土地を借り受けて、新工場を建設したのでした。
当時桜川は製材木工機械商が軒を並べ、道頓堀川に材木を浮かべる製材所が数多くあったので、全国から製材木工関連のお客が材木を買いに来る町であった。
当時は、この桜川から大阪城が良く見えた。辺り一面は焼け野原で建物は殆どなかった。戦後復興のための住宅の建設ラッシュが始まり、木工用の丸鋸は飛ぶように売れ、造れば売れると言う時代が到来した。
そして昭和28年(1953年)に、社名を「谷製鋸株式会社」に改め、資本金50万円で会社組織に改組した。その頃のブランドが「クローバー天人印」であった。
そして運命的な出会いが邦雄を待っていたのである。
昭和30年代に入ると木材だけではなく、鉄鋼製品も建設や公共工事に必要となりはじめた。
その当時、溶接鋼管の造管ラインにて、ドイツ製の走行式鋼管切断機には、外径355mmのドイツ製フリクションソーが標準装備されており、その素晴らしい切断スピードと切れ味に驚嘆されていた。しかしドイツ製のフリクションソーを再研磨するところがなく、お客様に丸鋸の再研磨をお願いされたのである。当時は丸鋸の研磨は、機械ではなくて、人間がグラインダーで刃を手摺(てず)りしていた時代である。しかし当時から当社には名人がいて、グラインダーで手摺りをして再研磨をしたところ、新品に変わりない切れ味と刃の寿命が再現されて、当社は金属切断用丸鋸の研磨屋になったのである。そして、再研磨だけではなく新品も造ってみたらどうかと、お客様に打診されて、それから昭和32年(1957年)に日本初の金属切断用丸鋸(フリクションソー)が当社で製造されたのである。この瞬間が、当社が金属切断用丸鋸製造の専門メーカーへと一歩踏み出した時であった。日本で初めての金属切断用丸鋸製造の専門メーカー、谷テックの誕生であった。

創業当時の天人ソーロゴ